インフレと円安
投稿日 : 2022年06月23日
エネルギー価格や小麦などの食料品価格の高騰が、一段と進みつつある円安とともに、日本にデフレ時代の幕切れを告げ、高インフレ時代をもたらすのではないかとの不安を呼んでいる。また長引くウクライナ危機とロシアに対する日本を含む西側諸国の経済制裁が、世界的な規模でエネルギー危機、食料危機、金融危機をより深刻化し、不確実性を増している将来への懸念を一層高めている。そこで本稿では、最近の論壇から、日本のインフレに関する議論と、円安の将来を見通す主な見解を考察する。
インフレの実態
日本におけるインフレの実態については、2つの側面があると指摘されている。1つ目は、ガソリンや電力などの燃料価格や小麦などの原材料価格が急騰していることである。これにより、本年5月の企業物価指数は、前年比9.1%増と大きく上昇した。この「急性インフレ」(渡辺努東京大学大学院教授)は、ロシアのウクライナ侵攻とこれに対する西側諸国の経済制裁の影響によるところが大きい。
2つ目として、日常的に購入しているモノ・サービスについての消費者物価指数は、本年4月時点で総合指数は前年同月比2.5%増、生鮮食品とエネルギーを除く総合指数では前年同月比0.8%増と比較的低い水準にとどまっており、相当数がインフレ率ゼロに近いところにある。にもかかわらず最近人々が物価高を如実に感じているとしたら、日常的に頻繁に購入するガソリンや食料品などの値上げにより、消費者が実感しやすい「体感インフレ率」(飯田泰之明治大学教授)が上がっているからであろう。
この二つの事実は、1990年代から現在まで続いている「『慢性デフレ』を克服できないうちに、海外から『急性インフレ』が日本に押し寄せてきている」(同渡辺教授)ことを示していると解されている。このため日本経済は、一方の問題にはプラスの対策が、もう一つの問題の解決にはマイナス要因となるという厄介なジレンマを抱えている。
渡辺努東京大学大学院教授は、「慢性デフレ」と「急性インフレ」という「二つの病に苦しむ日本は、金融政策のさじ加減が非常に難しい」と述べ、欧米のようにインフレ抑制のための金融引き締めを進めれば、「急性インフレに対してはプラスでも、生産活動や雇用に悪影響を与えるので、慢性デフレにはマイナス」だと指摘する。さらに「値上げ嫌い」の日本の消費者は「生活防衛に走って、いま以上に価格に敏感になり、企業は価格の据え置き慣行を強めることになる」と説明する。(『文藝春秋』6月号、「狂乱物価『悪夢』のシナリオ」)。
他方、飯田泰之明治大学教授は、体感インフレ率は高くても、今年2月時点の消費者物価指数は低水準に留まっており、「いかなる基準においても、この程度の物価上昇を『高率のインフレ』ということはできない」としたうえで、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻で、企業・家計の不安感が高まるなかでの急速な円安の進行により、「あたかも円安が現在の経済問題の大きな原因であるかのような錯覚がもたらされている。しかし、国内の食料品・エネルギー価格上昇の主因は円安ではない」と断じる(『中央公論』6月号、「円高待望論が招く危機」)。
今後のインフレの予測および対策
今後のインフレの予測およびその対策については、種々異なる議論がみられる。一方では、「日本は『ハイパーインフレ』への道を歩んでいる」(『文藝春秋』7月号、藤巻健史経済評論家「インフレ地獄を覚悟せよ」)と警告する悲観的な意見もあれば、「いまの物価高は一時的なもので、若干の上昇はあっても、一年ほどかけて落ち着くだろう」(前述渡辺努教授)との楽観的な見方もある。また、ガソリンや食料品といった、その多くを輸入に頼る必需品の価格高騰により、他の多くの国内商品の需要が減少し、デフレ圧力となるという見方、すなわち「インフレがもたらすデフレの恐怖」を指摘する意見もある(前述飯田泰之教授)。今後のインフレ動向をどう予測するかによって、インフレ対策についての具体的な提言も異なる。
物価高は落ち着くとみる渡辺教授は、消費者には、代替の難しいガソリンは車の運転回数や距離を減らす、食品は価格の安い国産品を選ぶなど、「小まめな節約」の積み重ねが、「一部の商品の値上がりを、かなりの程度、相殺できる」と指摘する。実際に、1979年の第二次オイルショック時の石油価格の高騰を「こまめな節約」で乗り切った実績を強調する。デフレの解消に力点を置く飯田教授は、コスト高による企業の人件費圧縮を回避するには、値上げのしやすい状況が必要であり、現下の「金融緩和、具体的には長期金利の低位抑制は国内生産品のインフレ率が明らかな上昇を見せるまで継続される必要がある」とし、デフレが再来すると「その被害はコロナショックやウクライナ危機以上に、日本経済に長期的な損失をもたらす結果となる」と警告する。
円安の動向と利上げの予測
円安の進行に歯止めがかからず、6月13日には、対ドルで135円まで下落し、24年ぶりの安値を記録した。この円安の主たる原因については、日米間の政策金利格差の拡大が指摘されている。
米国の連邦準備制度理事会(FRB)は、国内のインフレ抑制のために金融引き締め策を一段と推し進めて金利を徐々に上昇させており、15日の米連邦公開市場委員会(FOMC)で通常の3倍の0.75%の利上げを決定した。27年ぶりの異例の上げ幅となり、加速するインフレを止めるため強硬策に出たかたちだ。同理事会パウエル議長は会見で、さらなる利上げを続けていく方針を強調した。また欧州中央銀行も7月1日に量的緩和策を終了し、同月中に0.25%の利上げに踏み切る方針を発表している。
これに対し一時的にインフレ率2%に達した日本は、依然として日銀が実質ゼロ金利の金融緩和路線を堅持し、長期金利の上限も0.25%に抑えており、6月16~17日の金融政策決定会合においても、大規模緩和策の継続を決めた。回復途上にある経済を下支えしつつ、金融・為替市場の動向やその経済・物価への影響を注視するとしている。黒田総裁は同会合終了後の会見で、「過去数週間のような急激な円安の進行は、経済にマイナスであり、望ましくない。・・・経済が持続的に成長し、労働需給がタイトになり、賃金と物価の上昇により、安定的なインフレ率2%を達成することを目標としていく」と述べた。
今後の為替市場の動向については、米国の利上げに連動して、さらに円売りドル買いが進み、今秋には1ドル140円まで下落するとの見方も出ている。実際、6月22日には136円を超えて値下がりした。この円安・ドル高傾向が今後どの程度進むのか、日本経済にとって望ましいのかどうか、近い将来に利上げの時期が来るのかなどについて、種々の議論がなされている。特に、1990年代後半に「ミスター円」の異名をとった榊原英資元財務官や、安倍晋三内閣の下で内閣官房参与を務めた浜田宏一エール大学名誉教授の見解に注目する。
榊原氏は、市場では、22年末から23年初めにかけて140円から150円ぐらいまで円安になるとの予測が出ていることについて、「おおむねその水準まで円安が進行するだろう」としたうえで、来年4月8日に任期満了を迎える「黒田総裁が金融緩和路線そのものを大きく変更することはない」、したがって、「黒田総裁の任期中に円安基調が変わることはないとみてよい」と述べる。円高に導くための為替介入には、インフレの抑制を優先する米国が協調する可能性は低く、また、日本の外貨準備高を踏まえると「円買い介入を繰り出せる回数、規模には限界がある」からである。(『文藝春秋』6月号、「ポスト黒田の『利上げ時代』に備えよ」)。
浜田氏は、野村浩二慶應義塾大学教授との共同執筆記事の中で、「国民経済が完全雇用、自国通貨安の下にあって、放っておくとゆるやかなインフレを招く状態である」高圧経済が望ましいとし、「日本経済にとって、円高阻止は高圧経済の必要そして十分条件である」と主張する。安倍首相と黒田総裁が円高を阻止して500万人の雇用を創出した後に「『悪い円安論』が日本経済を再び沈没させないか」と懸念しつつ、「高圧経済は、雇用の短期的下落を防ぐだけでなく、長期的にTFPなど生産性の向上に役立ちうる」と、結論づけている(『正論』7月号、「日本経済に望ましい持続的円安」)。
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