外国記者に聞く

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【韓国】京郷新聞 徐義東 東京支局長

投稿日 : 2013年12月16日

2011年3月、東日本大震災発生の5日前に着任した京郷新聞の徐義東東京支局長(47)= 東京都。「日本では地域の独自性をどう守っていくのか見ていきたい」という徐支局長に、日本の印象や日本での取材について聞いた。

 

 ~日本は東アジアを俯瞰できる場所~

 

 

-日本に興味をもったきっかけは。

大学で東洋史を専攻しており、参考にしたい資料は日本語のものも多かった。日本人は几帳面で記録を残すのにも熱心。日本には東アジアの情報が多く、全体としてとらえられると思った。初めて訪れたのは大学時代。京都を観光中に道を尋ねたら目的地まで車で案内してもらうことになり、日本人の親切さに驚いた。日本で仕事をすることになり、韓国や中国に対する日本の見方を肌で感じている。以前は韓国からの視点で考えていたが、自分の国籍を離れて物事を見ることができるよい経験になっている。

 

-なぜ記者になろうと思ったのですか。

独裁政権下にあった韓国で、1987年、学生や市民の力で憲法改正を果たし、大統領を直接選挙で選べるようになった。それまで隠されていた事実を掘り起こしたいと希望を持つ人が多かった。そうした時代の流れの中で、1991年に記者になった。

 

-記者としての充実感を味わうのはどんな時ですか。

歴史的な現場に立ち合えること。2000年の南北首脳会談後、平壌で離散家族再会を取材した。当たり前に会えるはずの家族同士がずっと会えなかった理不尽さ。抱き合う人々を取材する記者たちも涙していた。また、自分の記事が政策の改悪を食い止める一助になった時にも、やりがいを感じた。国立の医療施設の売却により医療費が高騰する恐れがあった。医療の公共性を訴える記事を書き、反対の機運が生まれた結果、売却は見送られた。

 

-日本で最も強く印象に残っている仕事は。

東日本大震災から3日後、宮城県南三陸町に入った。行方不明の祖母を探している男性に、海外メディア数社とともに話を聞いた。繰り出される多くの辛い質問に淡々と答えていた彼が、最後に涙をこらえて空を仰いだのが印象的だった。自身も被災した仙台の女子大学生は、涙で言葉を詰まらせながら通訳を務めてくれた。

 

 

 ~韓国とは違うところを伝えたい~

 

-今後どのような取材を考えていますか。

地方の人々の暮らしを取材したい。韓国ではソウル一極集中が進み、何もかもソウルに吸い込まれている。東京への集中もみられるが、日本の各地方は韓国に比べはるかに力を持っている。守るべきところだ。地域経済や独自性を守るために人々がどのように頑張っているのか、見ていきたい。日本と韓国で違うところを伝えたい。

 

-日韓関係は依然として行き詰っているようにも見えます。

厳しい状況が続くのは両国にとって損。トップ同士はやはり会って話をするべきだと思う。2015年は日韓国交正常化50周年。まずは前向きなテーマにともに取り組み、関係改善が進んでいけば懸案事項の話し合いを進めるのも1つの方法ではないか。

   

-FPCJに求めることは。

プレスツアーは、安価で地方を取材できるよい機会。ぜひ増やしてほしい。各取材先での時間がもう少し長くてもいい。プレス・ブリーフィングでも、より深く話を聞けるよう、質問時間を長く確保してほしい。

 

 

徐義東(ソ・イドン)東京支局長

1966年12月生まれ。韓国・大田広域市出身。ソウル大学東洋史学科卒。1991年、韓国日報地方部の記者に。文化日報記者時代、2004年に慶應義塾大学法学部に訪問研究員として1年間在籍。2008年に京郷新聞に移り、2011年3月から現職。

 

 

 

 

京郷新聞

京郷新聞 

1946年創刊の日刊紙。「京郷」は「都市に、そして世界へ」を意味する。時の政府との対立により、廃刊も経験している。発行部数は韓国の全国紙の中位で約35万部。若年層の読者が多い。海外支局は東京、ワシントン、北京にあり、それぞれ1名の特派員を置いている。

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