改善なるか日本のハンコ問題。新型コロナ禍で浮き彫りに
投稿日 : 2020年05月27日
武蔵大学 庄司昌彦 教授に聞く 現状と課題、今後の展望
新型コロナウイルス禍以降、政府は感染拡大防止のため人との接触を8割減らすよう促し、在宅勤務を推奨しています。これを受け、日本でも在宅勤務が急速に進む一方で、「紙の書類にハンコを押したり、その書類を提出したりするためだけに出社しなければならない」という働く人々の声がSNSなどで多く上がっています。
「紙の書類に押印する」という日本独特の業務慣行が在宅勤務を阻む――このような事態はなぜ起き、政府はどのような取り組みをしているのでしょうか? また、今後改善は進んでいくのでしょうか?
突然のコロナ禍で浮き彫りになったこの「日本のハンコ問題」について、武蔵大学 庄司昌彦教授に聞きました。
「ハンコ出社」の背景とは
—— Q1. 新型コロナ感染拡大防止のため、日本の企業でも急速に在宅勤務が広がるなか、「書類にハンコを押すためだけに出社しなければならない」という声がSNSなどで多く上がっています。なぜこのような事態が起きているのでしょうか?
庄司教授:
押印が必要な紙ベースの手続があり、コロナの収束を待ったり郵送でやりとりしていたりしては時間がかかるため、本来は避けなければいけない「人が動く」ことで対応してしまっています。
紙ベースの手続は、1)「社内」での稟議や届出などの書類手続と、2)「社外」との契約等のやり取りとに話は分けられるでしょう。社内の意思決定や届出などに関しては、紙で証拠を残すことが多く、その際に起案者や申請者、承認者の「本人」がそれを行なったことを示すために署名ではなく押印が行われています。印刷した書類を後から手書きで修正した時に押す「訂正印」など慣習としてずっと残っているものもあります。しかしこれは社内の問題ですので、経営者が決断すれば電子化や業務の見直しはできるはずです。
一方、社外の企業や役所とのやりとりにおいては、他社に対して自社の都合(紙ベースの廃止、押印廃止)に合わせるよう依頼することは躊躇されることが多いのでしょう。業界としての取り組みや、社会的な機運の高まり、政府による促進策などが改革のためには必要であると思われますが、これまでそうしたことは強くは行われてきませんでした。
ハンコでなくてはいけないのか
—— Q2. そもそもハンコや紙の書類でなくてはならない理由(法的根拠など)はあるのでしょうか?
これまで効率化を阻んできた理由は一体何なのでしょうか?
庄司教授:
会社など法人を設立する時に印鑑の届出が必要であるなど法的裏付けのある印鑑もありました。しかし2019年に成立したデジタル手続法や政府が進めているデジタルガバメント実行計画などにより、少なくとも政府と民間の間では、法的根拠のある押印や印鑑の届出は、廃止とまではいきませんが「デジタル手続でもOK」にだいぶ変わりました。
しかし実際には、契約書類や入札における提案書、会計関係の書類、政府会議の委員就任承諾書など、私が知る範囲でも政府から押印が求められることはまだなくなっていません。政府からの監査などを気にする大学なども「念のため」なのかもしれませんが、以前と変わらず押印を求めています。霞が関の政府機関でもいまだに出勤簿に押印しているという話も聞きます。つまり法的制度的には印鑑がなくてもよいようになっているはずですが、対応が進んでおらず実態として押印がなくなっていません。このことが、民間でも押印の廃止やペーパーレス化が一部の先進的な企業にとどまっている原因のひとつになっていると思います。
このように政府や民間企業が「仕事の仕方を変えられない」ことが効率化を阻んでいます。その背景には、さまざまな慣習や文化的要因が考えられます。政府においても民間においても意思決定者の権限が明確化されておらず、またそのために権限が強くなく、現場の人々のコンセンサスを得なければ改革がしにくいことも背景の一つでしょう。現場の人々に、新しい仕事の仕方を漏れなく矛盾なく丁寧に説明しインセンティブを与えなければ動いてもらえないというプレッシャーは改革を踏みとどまらせています。また、デジタル技術の導入に対して「冷たい」「効率至上」などと否定的・消極的であり、アナログ技術に「文化」や「丁寧さ」「微調整」などの美徳を見出し、非効率なことでも勤勉に人手でやりつづけることを良しとする価値観も背景にあると思います。
政府の取り組みは
—— Q.3 現状を受け、政府も以下のように対策の動きを見せています。具体的には何をどのように変えようとしているのでしょうか? また、この政府の取り組みをどのように評価していますか?
<政府の取り組み例(2020年)>
- 4/20:総務省の有識者会議で、企業間の請求書などについてネット上で交わす書類が本物だと証明する制度を2022年度から始める案が示された
- 4/22:IT総合戦略本部の会合で安倍首相が、民間の経済活動で紙や押印を前提とした業務慣行を改めるよう、民事ルールも含め、国の制度面で見直すべき点がないか全面的に点検してほしいと指示
- 4/27:経済財政諮問会議で安倍首相が関係省庁に対し、テレワークの推進に向けて押印や書面提出等の制度・慣行の見直しを進めるよう指示
庄司教授:
総務省の有識者会議で議論を行うe シールは、今回の新型コロナウイルス対応を踏まえて出てきた議論ではありません。電子的な経済活動を円滑化するためにEU域内で2016年7月に発効したeIDAS 規則(electronic Identification and Authentication Services)が規定する、組織の正統性を示すための手段です。この件に関する検討は2019年1月~11月に活動した総務省「プラットフォームサービスに関する研究会」の「トラストサービス検討ワーキンググループ」などで行われてきました。また国内の行政手続におけるデジタル化は「デジタルファースト」などの原則を掲げた2019年のデジタル手続法で加速されており、また電子署名に関する法律は2001年から施行されています。
つまり紙による手続の電子化や、印鑑の代わりに電子署名を用いるための政府の取り組みは20年近く行われてきており、それがなぜ実効性をもってこなかったのかということを考えるべきでしょう。その理由については文化的側面を中心にQ2の回答で述べましたが、法律ができても、首相が指示をしても、実際には大きく変わってこなかったのがこれまでの日本でした。今回もそうした失敗を繰り返さないよう、政府が仕事の仕方を実際に変えること、経済団体や業界団体などが民間企業などの改革を支えることなどが重要ではないかと私は考えています。
「アフターコロナ」で日本の職場は変わるのか
—— Q4. ハンコ以外にも、FAXの多用など(※いまだにFAXのみで取材の受け付けをする組織があり、外国メディアから大不評です)、日本の職場独特の古い慣行が長時間労働の一因となり、「働き方改革」を阻んできたことが今回の突然のコロナ禍で浮かび上がってきたように見えます。
この経験から日本が学ぶべき点は何でしょうか? また、今後日本の職場でどのような変化が起きると考えられますか?
庄司教授:
多くの人が長期間のテレワークを経験したことで、ハンコだけではなく、FAXなど紙でのやりとりや対面でのやりとりを重視する文化、満員電車に揺られて出勤すること等々、古くて非効率な労働慣行が、「今までよりは」大きく変わるのではないかと私は考えています。
しかし、考え方を変えるというのは難しいことで、仕事の仕方を変えない組織もかなりの割合であるでしょう。今後は、変化をした組織と、しなかった組織との間で格差が広がるのではないでしょうか。今回のコロナ禍は、世界中で同時に起きていますので、もし日本ではすぐに感染が収束し、その結果として押印の廃止やデジタル技術の活用がそれほど進まなかったとしても、世界の国々ではデジタル技術の活用を前提とした新しい働き方が広がっていくと思います。その世界的な新しい常識に対応した企業と、そうではない企業との差はかなり大きなものになるでしょう。
—— Q5. その他、この問題に関連してコメントがありましたら、自由にご意見をお聞かせ下さい。
庄司教授:
今回の回答では、代理で本人以外の人が押印できてしまうことや、印影の複製が容易であること、印影を画像にして貼り付けるなどのセキュリティ的に問題のある行為が広がっていることなど、技術的な面からの解説はほとんどしませんでした。技術的に見て、印鑑による意思表示はすでに信用度の低いものとなっているといえます。今後は、表彰状に押す印鑑など文化的な側面から需要があるものにのみ印鑑を使っていくことが望ましいのではないでしょうか。貴重で高級なものとなっていくことや、印鑑でならではのメッセージ性に特化していくことが、印鑑の将来につながるだろうと考えています。
<武蔵大学 庄司昌彦 教授 略歴>
武蔵大学社会学部教授、国際大学GLOCOM主幹研究員、Open Knowledge Japan 代表理事、インターネットユーザー協会(MIAU)理事、内閣官房オープンデータ伝道師、総務省地域情報化アドバイザー、情報通信学会理事を務める。主な関心領域は、情報社会学、情報通信政策、電子政府、オープンガバメントなど。https://researchmap.jp/mshouji/
■メール:masahiko.shoji[at]cc.musashi.ac.jp (※[at]は@に置き換えて下さい。)