実施日 : 2025年02月04日
【外国記者の素顔に迫る】「The Foreign Press」Vol. 7 ジョアン・フルリさん(フリーランス記者)
投稿日 : 2025年02月04日
フォーリン・プレスセンター(FPCJ)の「The Foreign Press」の第7号をお届けします。現在、日本では、世界約30の国・地域、145の報道機関に所属する記者約430人が、日本各地を取材し世界に伝えています(FPCJ調べ)。こうした「記者」には、記事を書く記者/テレビ・ラジオのレポーターのほかカメラなどの技術スタッフ、さらに取材先のリサーチから取材調整、取材当日の現場対応を行うコーディネーター兼通訳など様々な役割の人々が含まれます。また、外国記者といっても、日本で採用された日本人スタッフも多く、その割合は全体のおおよそ3人に1人となっています。この企画では、このように多様性あふれる記者をご紹介します。皆さまにおかれましては、今後機会がございましたら、可能な限り彼らの取材にご協力いただきますよう、お願い申し上げます。
The Foreign Press Vol.7 2025年2月4日
ジョアン・フルリさん(フリーランス記者)
Ms. Johann Fleuri
「苦しみが多すぎて、取材するのがとても辛かったです。インタビューのたびに、被害者の女性たちが泣き崩れたのをよく覚えています。・・・ある女性は泣き出して、私のせいだ、私があの人たちを殺した、私がお客さんを殺したんだ、と語りました。彼女が感じた罪悪感は計り知れないものでした。もちろん彼女は何も悪くありません。油が汚染されていたのは彼女の責任ではないのです。」
日本でこれまでに最も印象に残っている取材を尋ねたとき、ジョアン・フルリさんは少し沈黙した後で、2018年にカネミ油症事件(注1)の取材で訪れた長崎県・五島列島で出会った女性患者について、こう語りました。
フルリさんの取材スタイルは、とにかく足繁く現場に足を運んで、当事者の声にじっと耳を傾けることだそうです。常に社会的な弱者に寄り添い、繰り返し現場を訪れ丁寧な取材を積み上げることで、そこから見えてくる社会の矛盾や社会的な不正義を世論に問うという姿勢は、社会派ジャーナリストの真骨頂と言えるかもしれません。
【ジャーナリストを志した理由】
フランス出身のフルリさんがジャーナリストを志したのは高校生のころ。最初は漠然とした憧れでしたが、記事を通じて社会課題への人々の関心を高め、社会的な不公正に切り込むジャーナリズムは、私たちの社会を前進させるプラットフォームだと確信するようになったそうです。そこで大学では文学部に所属しジャーナリズムを専攻、その理論を学ぶとともに、2006年からはウエスト・フランス(Ouest-France)紙(注2)で見習い記者として豊富な現場経験を積むことになりました。
【日本との出会い】
見習い記者としての毎日はとても充実していたとのこと。ただ、現場を周るハードで多忙な日々の中でひどく消耗したことを契機として、自分の時間を大切にしたいと考え、フルリさんは2009年に日本にやってきました。正直なところ日本のことはそれほど詳しくはなかったらしいのですが、自分の知らない世界を発見したいというあくなき好奇心と、アジアへの強い関心から、「日出ずる国」に関心をもったようです。
ワーキングホリデーで来日して、仕事のかたわらすべての都道府県を旅しました。フルリさんは、日本に到着してすぐに、何かとても個人的なとても強い絆が日本との間に生じたのを感じたとのことです。これは、他の国を訪問したときには決して生まれなかった特別な感情だったとのこと。
2010年末にワーキングホリデーが終了すると一旦フランスに戻り、ウエスト・フランス紙に復職。そこで充実した記者生活を送っていましたが、日本への思いを断ち切ることはできませんでした。特に、2011年の東日本大震災と被災者のその後の苦難はフルリさんにとてつもなく大きな衝撃を与えました。最終的には2015年に日本に舞い戻り、以来東京を拠点として記者活動を行っています。
【印象的な取材と能登への思い】
カネミ油症事件のほかに思い入れのある取材を聞くと、フルリさんは東日本大震災と「かにた婦人の村」(注3)での取材を挙げました。大震災から数か月後には来日し東北地方の被災地を訪問したり、性暴力の結果大きなトラウマを負った女性たちと「かにた婦人の村」で数日間ともに過ごしたりと、直接足を運び当事者に対して丁寧な取材をしています。
最近特に気になっているのは、能登半島地震の復興が遅々として進まないことだそうです。フルリさんは、昨年1月の発災以降何度も現地を訪問し、被災者に寄り添いながら、声なき声を拾い取材を続けています。東日本大震災を予見することや予め十分な備えをすることは難しかったと思うとしたうえで、「発災から1年経っても、能登では何も前に進んでいない。何も成し遂げられていない。私たちは2011年の大震災からいったい何を学んだのだろうか。能登ではすべての家がまだ地面に倒れたままだ」と憤りを隠しません。地震そのものよりも、時間がたってから地震の影響で亡くなった方が多いとしたうえで、特に日本の地方部で急速な高齢化が進む中、どうやって高齢者の円滑な避難を実現するのかが今後の課題だと感じているそうです。
【日本で仕事をする際の困難】
日本で取材活動をするうえでの苦労を尋ねたところ、やはり言葉の問題がネックになると語ります。当初は通訳を使っていたのですが、それは複雑でもどかしかったとのこと。特にフルリさんは社会課題を取材テーマとすることが多いため、機微な話題を扱うことも多く、通訳を通じてのコミュニケーションに限界を感じたとのことです。
そこで週末にレッスンを受けたり、独学を積み重ねたりすることで少しずつ日本語を習得し、現在では主に日本語で取材活動を行っているそうです。「私の日本語はアカデミックなレベルではないけれども、性格上、ノンバーバル・コミュニケーションにとても慣れていることも事実なんです。」
【今年の抱負】
最後に今年の抱負を聞いたところ、「今年は原爆投下から80周年なので、詳細は未定だが、原爆の問題を扱いたい」と考えているとのこと。被爆者が超高齢化するなかで彼らの語りをどう引き継いでいくのかが重要だと話してくれました。被爆者の平和に向けた思いがフルリさんの言葉で世界に向けて紡がれていく日が楽しみです。(T.Y.)
(注1)カネミ油症事件とは、昭和43年に西日本を中心に広域にわたって発生した、カネミ倉庫社製の「ライスオイル(米ぬか油)」による食中毒事件です。事件の原因は、「ライスオイル(米ぬか油)」の製造工程中の脱臭工程において、熱媒体として使用されていたポリ塩化ビフェニル(PCB)、ダイオキシン類の一種であるポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)等が製品中に混入したことによるものです。(引用元:東京都保健医療局HP:https://www.hokeniryo1.metro.tokyo.lg.jp/shokuhin/kanemi/kanemi.html)
(注2)フランス西部に読者が多い地方日刊紙。
(注3)婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」(千葉県館山市)は、売春防止法で規定される要保護女子(自活困難な状況にあり、転落の恐れがある女性)の中でも、知的障害・精神障害を抱え、長期の保護による生活支援を必要とする女性を、1965年の開設以来、全国から受け入れ、支援しています(1965年開設 定員100名)。(引用元:社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母の家」
(HP:https://www.bethesda-dmh.org/gaiyo/shisetsu/)