山本寛斎氏 デザイナー/イベントプロデューサー【1】
投稿日 : 2015年12月14日
若干26歳の若さで、日本人として初めてロンドンでファッションショーを開いた山本寛斎氏。日本の文化とアバンギャルドなデザインを融合させて鮮烈なデビューを果たし、その後もパリやニューヨーク、東京でコレクションを発表して世界的なデザイナーの地位を確立した。1990年代からは、イベントプロデューサーとしてロシアやベトナム、トルコ、中国などで「Kansai Super Show」を開催。日本国内でも、体の元氣、心の元氣、精神の元氣、あったかい元氣、愛する元氣など、元氣をキーワードにした「日本元気プロジェクト」などを開催している。70代を迎えなお精力的に挑戦し続ける寛斎氏に、挑戦の軌跡や、日本への思いを3回にわたり語ってもらった。第1回は、寛斎氏の海外での活躍について伺った。
~ ファッションとイベント 混然一体の世界観 ~
フォーリン・プレスセンター(以下、FPCJ):寛斎さんは、1971年のロンドンを皮切りに、パリやニューヨーク、東京でコレクションを発表されました。
山本寛斎氏:ファッションショーをやっていたのが80年代いっぱいまでで、パリ、ニューヨーク、東京と、年に2回世界を一周して発表してきました。
日本というと、外国の方は「侘び」「寂び」を連想しますが、私の作品はそうではなく、「かぶく」「バサラ」といわれる、織田信長や豊臣秀吉の安土桃山時代の色使い、大胆さみたいなものが根底にありました。もう一つ、歌舞伎に「引き抜き」「ぶっ返り」(両方とも、2枚の衣装を重ねて縫い合わせ、糸を抜くと下の衣装が現れる衣装替えの手法)という、一瞬にして衣装の色が変わる方法があります。ロンドンでは、その手法などを用い、「(自分が世界で)勝つべき理由」を明確にしてやりました。初めて見たイギリス人たちは仰天し感銘を受けていました。
最初のロンドンの時は、「ファッションショー」と「スーパーショー」(ファッションやパフォーマンス、音楽などを融合したイベント)という区分はまだありませんでした。イベント風でもあり、ファッションでもあり、全部が混然一体となっていました。極めてユニークな作風だったわけです。
~ イベントを通じて、知らない国を身近に ~
FPCJ: その後は、イベントプロデューサーとしてご活躍され、海外で「Kansai Super Show」を手がけていますが、イベントを始めた動機、目的をお聞かせください。
山本寛斎氏:「イベント」と「ファッション」を分けていますが、本来は分けられるものではありません。一生懸命やると、自動的に融合してしまうのです。明確にやり始めたのが90年ごろで、成功したのが93年のロシア (モスクワ・赤の広場)の「ハロー!ロシア」です。このイベントは、「日本人がよく知らない国」「日本人がよく知られていない国」という基準で開催地を選びました。
ロシアとは北方領土の問題があり、当時は「好きじゃない、ロシア」という国民感情が強かった。第二次世界大戦後のシベリア抑留の問題などもあり、マイナスイメージしかありませんでした。「本当に、マイナスだけの国なのかしら」と思い、実際に見に行ったというのがイベントを企画した動機です。我々の考えを示しに行く、ということもありました。一番の目的は、文化交流です。【写真:1993年にモスクワで開催した「ハロー!ロシア」(山本寛斎事務所提供)】
FPCJ: 1995年には、ベトナムでもイベントを開催されました。
山本寛斎氏: ものすごく記憶に残っていいます。ショーの前にベトナムのことをいろいろ調べ、「ベトナムがなぜ、軍事大国であるアメリカに勝ったのか」といった疑問が出てきました。その答えが、交流することで分かってくるのです。それが、私の知識欲でもあります。ホーチミン、ハノイ、フエなど様々な場所を訪れました。その時、ベトナムの少女達が日本人がお祝いの時に着る留袖という着物の刺繍をやっているのを見たのですが、サンプルがない中で自由自在にやっていた。「この国民の技術は日本人に勝るとも劣らない」と思いました。
ショーの会場は、魚を養殖する池でした。「南の島に雪が降る」という、第二次世界大戦中の物語(俳優・加藤大介の従軍手記。日本軍兵士のために作られた演芸分隊の話)がありまして、それを真似て私たちも雪を降らせようということになりました。その雪を紙で作ると魚へのダメージになりますが、どうしてもやりたい。研究を重ね、春巻きの素材であるライスペーパーを使うことになりました。きれいに空中を舞い、落ちたエサになる。どの分量なら魚にプラスになるか、ということまで研究しました。【写真:1995年にベトナムで開催した「ハロー!ベトナム」(山本寛斎事務所提供)】
FPCJ:ベトナムでの活動は、イベント開催だけではありませんでした。
山本寛斎氏: 1回のショーで終わりではなくて、もっと貢献できることはないだろうかと考え、ファッションの学校をプレゼントしようと思いました。最終的にはハノイの芸術大学に私ができる最大限の金額を寄贈し、ファッション課程を作ってもらいました。今や100倍の競争率で、卒業生の成功率がものすごく高いと聞いています。卒業式のときにNHKと一緒に行きまして、それが「世界わが心の旅」(2001年放送)という番組に収録されています。
【第2回につづく】
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山本寛斎氏プロフィール
デザイナー/プロデューサー。1944年生まれ。ファッション・エディターズ・クラブ賞、第7回日本イベント大賞 審査員特別賞、第7回 東京クリエイション大賞 国際賞、グッドデザイン賞、ブルーリボン賞ほか、受賞多数。東京ファッションデザイナー協議会設立幹事、ロシア国際人道救助協力基金海外顧問などを務める。「上を向いて。」(祥伝社、2012年)、「熱き心」(PHP新書、2008年)など著書も多数。
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