外国記者に聞く

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【米国】ニューヨーク・タイムズ紙 マーティン・ファクラー東京支局長

投稿日 : 2013年11月25日

aIMG_88662綿密な取材で社会の矛盾を映し出す一方、「声なき人々」に寄り添い、新たな視座を読者に常に提供してきたニューヨーク・タイムズ紙のマーティン・ファクラー東京支局長(46)=東京都。17年前から大部分の記者人生を過ごしてきた日本で感じたことを聞いた。

 

※本インタビューは英語で行われ、翻訳・編集したものです。

 

―これまでで最も印象的な仕事は。

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は忘れられない。いかに大きな悲劇だったか。一言では言い表せないが、日本の強さと弱さどちらもがあらわになった。大惨事のなかでも、礼儀正しく、我慢強く助け合う姿に、人々と地域の力を感じた。一方、大企業や政府、その協力体制の怠慢や腐敗ぶりは、震災で垣間見えた最大の弱点だろう。40年ほど前には大いに成功していたシステムが、十分な競争や挑戦、チェック機能のないまま、利権を追求するだけの構造になってしまった。政府はなおも企業の権益や天下り先を守り、一般の人々を守ろうとしていない。ただ、面白いのは多くの日本人が原発やその規制手段に疑問を抱きながら、原発推進派の自民党を選んだこと。日本がどこへ向かいたいのか、まだはっきりしないようだ。

 

~ 声なき人々の話を伝えるのが私の仕事 ~

 

―記者になってよかったと感じる瞬間は。

声なき人々の声を伝えられた時だ。先日も、内心では帰れる日は来ないとの思いを噛みしめながら福島県浪江町の自宅を毎月掃除しに訪れる老婦人たちの記事を書いた。声を挙げられない人々の思いを書くことが仕事だ。東京電力のスポークスマンとしてではなく。

 

―なぜ記者になろうと思ったのですか。

何かを調べて発見することが好きで、記者か大学の先生になろうと思っていた。外界から隔たれたキャンパスで過ごすより、現実の世界でリアルタイムに活動できるジャーナリストに魅力を感じた。ある問題に対してどう考え、どんな視点で構成するか。調べ始める段階では全体像が見えないこともある。まったく新しい何かを生み出すのは大変だが面白い。

 

―もともとアジアに興味があったのですか。

米国から出て外の世界を見たいと思っていた。大学1年生の時、欧州の言語以外にロシア語か中国語を選択できた。ちょうど冷戦の最中。一方中国は鄧小平の時代でまさに開かれようとしており、より多くの可能性を感じた。その後台湾で勉強を進めていたら、1989年に天安門事件が起き、中国は突然閉じてしまった。隣の日本は当時バブル期で、中曽根元首相が留学生を呼び込もうと多くの奨学金を作っていた。日本はどのようにアジアで初の先進国、さらには帝国となり、戦後先進工業国となったのか。日本の経済と発展の歴史にも興味があった。記者としてのスタートはブルームバーグ東京支局。その後ほとんど日本で過ごしてきた。今、高齢化で保守的になりがちな社会で、日本はかつて成功したように新たなモデルを創り出すことができるのか。大きな問いを追い掛けている。

 

~ 地域密着の記者が特派員の新たなトレンド 言語と地域を学べ ~

 

―日本で働くうえで良いところは。

とても住みやすい。清潔で整然としており、北欧のようだと思う。中国では大気や水、食品の汚染もあるが、日本に来るとほっとする。洗練され、礼儀正しく、親切な人々も印象的だ。他の国々では用心深さや警戒心がある程度幅を利かせるものだが、日本人は他人を信じようとする。人々が善いことをしようとする、誠実でひたむきな社会に見える。

 

―取材で感じる難しさは。

日本では目立つことを恐れ、みんなあまりオープンに話そうとしない。社会システムも異なり、新しく来た記者にとっては何が起きているのかとらえにくい手強さがあるだろう。日本流を理解するには時間がかかるが、それだけの時間と努力を注ごうとする人はあまりいない。私にとっては、ライバルが育たずこれまで積み重ねてきた経験が生かせるのはありがたいことだけどね。

 

―日本で仕事を始める記者にアドバイスを。

まずは言語をマスターすることだ。以前は特派員といえば国から国へと世界中を飛び回っていたが、今後は言語やその国の動きを学び、地域に根差した特派員が主流になっていくだろう。同時に、情報を分析し、価値を判断して書くというスキルも求められる。

 

~ 市民社会の一員としての意識の希薄さ もっと議論を ~

 

―日本が直面する課題は。

民主主義国家ではあるが、市民社会という意識は極めて低い。社会の問題を議論し、自らを批判的に分析していない。大きな政治的対立がないのがその一因では。数十年前には共産主義や社会党が力を持っており、まったく違う視点が社会に併存していた。議論をして自らを分析していたはずだ。今、左翼は死に絶え、民主党は脱官僚など一部を実現しようとしたものの現実に国を動かすことはなかった。それでも鳩山政権、菅政権の頃にはもう少し自国と向き合い、語る空気があったように思う。自民党に戻り、ある種の一党支配の体制の下で、日本の現状についてのディベートは生まれていない。社会の仕組みや問題、どう変えていくか、自らを振り返って語ろうとしないことが問題だ。

 

―日本人はおとなしい、あるいは閉鎖的だとも言われます。変わるためには。

内向きな国だと思う。もっと海外で学ばせるために、奨学金を設置し、企業に雇用制度の変革を求めては。硬直した雇用体制では、若者が海外に行ったり新しいことに挑戦したりするのは難しい。その後就職できず、仕事の得にならないのではリスクが高いからだ。高校や大学の卒業後2年ほどアフリカで働く、青年海外協力隊に参加する、米国や英国、中国の大学院で勉強するなど、本来別の方面に進んでみるのは建設的で有益なはず。経験や勝ち得た力をもう少し評価する仕組みを取り入れるといい。

 

―FPCJに求めることは。

東京大学大学院の伊藤隆敏教授によるプレス・ブリーフィングに参加したが、とても役立った。1対1のインタビューを受けたがらなかったり、時間が取れなかったりして話を聞くのが難しい人々もいる。そういった人々と話す機会を得られるのが一番ありがたい。東アジア情勢や福島第一原発事故、アベノミクスの「第三の矢」など、政策の核心部分や現状、目的を聞けるとうれしい。

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マーティン・ファクラー東京支局長

1966年12月生まれ。米国・アイオワ州出身。ダートマス大学(ニューハンプシャー州)でアジア研究を専攻し、イリノイ大学やカリフォルニア大学バークレー校ではジャーナリズムなどを学んだ。台湾の東海大学、慶應義塾大学への留学経験もあり、東京大学では経済史を研究。1996年、ブルームバーグ東京支局で記者として歩み始める。AP通信では東京支局のほか、ニューヨーク本社、北京支局、上海支局でも活躍。ウォール・ストリート・ジャーナル紙東京支局を経て、2009年より現職。著書に、『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書)がある。

 

aIMG_89042ニューヨーク・タイムズ紙

1851年創刊。米国を代表する日刊紙であり、「公平」「高潔」「信頼」を社是とする。月―金の平日版と日曜版があり、日曜版の発行部数は約122万部(2013年4-9月期)。オンラインでの購読を含めると約239万部(同)に上る。海外の30支局で75人の特派員が取材にあたる。東京支局では支局長以下5名が日本での取材を中心に活躍。カバーエリアは記者により異なる。

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