実施日 : 2015年06月02日
案内:和紙プレスツアー(埼玉県小川町)
投稿日 : 2015年05月20日
-次代へ伝える和紙の文化と技-
-戦時中、奇策に使われた小川和紙-
昨年11月に細川紙はユネスコ無形文化遺産に登録された。細川紙とは、埼玉県小川町、東秩父村を中心とした和紙の里で作られる「小川和紙」と呼ばれる和紙の一種だ。関係者の間では和紙の良さや文化を更に広めるだけでなく、和紙を漉く技術を継承し、後継者を育成する必要がますます高まっている。一方で、小川和紙は戦時中、風船爆弾に使用された歴史を有している。
本ツアーでは、埼玉県小川町と東秩父村を訪ね、その地で繁栄を遂げた和紙の魅力や職人の技、修行を積む研修生を取材する。そして、戦後70年を迎えるのにも合わせ、小川和紙が戦時中には「風船爆弾」のために量産されていたという小川和紙のもう一つの側面に迫る。
小川和紙と細川紙の歴史
現在の小川町周辺で和紙作りが開始されたのは今から約1,300年前で、当時は主に写経に和紙が使用されていたと考えられている。和紙の原料である楮(こうぞ)等がよく育ち、清流が豊かな環境のおかげで「小川和紙」は発展を遂げてきた。江戸時代になると、和紙は庶民にも広まった。商取引の活発化に伴って商品の売り買いを記録する台帳などに使われていた。この頃「細川紙」が登場する。
細川紙は和歌山県高野山麓にあった細川村の名産紙である「細川奉書」を漉く技術が小川の地に伝えられたことが起源とされている。江戸の紙問屋は細川奉書を幕府まで輸送する経費を削減するため、江戸に近く、既に和紙の一大生産地として栄えていた小川の職人たちに細川紙を漉くように促したという。これが成功し、小川町が細川紙の新しい産地となったと考えられている。
細川紙の特徴
石州半紙(島根県)、本美濃紙(岐阜県)と共に、「和紙:日本の手漉和紙技術」としてユネスコ無形文化遺産に認定された細川紙は、原料に国産の楮のみを使い、伝統的な製法と用具によって漉かれた和紙のこと。特徴の一つは耐久性で、「火事の時、細川紙で作った台帳を井戸に投げ入れておくと、家は焼けても帳面は残った」という言い伝えもある。現在は文化財の修復や版画、水墨画用紙、障子などに使われている。
※本プレスツアーはフォーリン・プレスセンターの主催で企画・運営しています。
※本プレスツアーでは、参加者には経費の一部を負担していただいていますが、営利を目的とした事業ではありません。
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<取材内容>
1. 後継者育成の必要性が叫ばれる小川和紙・細川紙
・細川紙技術者協会会長 鷹野禎三氏
・研修生 小山妙子氏、高山紗希氏
和紙の衰退と細川紙技術者協会
日本で洋紙が普及し始めたのは1875年頃。以降、次第に和紙の需要が減少し、原料不足、後継者不足が重なり、和紙は衰退の一途をたどってきた。1920年頃には1,000軒を超えていた小川町の紙漉き屋も現在は隣接する東秩父村を含めても10軒しかない。このような状況を受け、細川紙技術者協会は技術を後世に残していくため、無形文化遺産の「保持団体」として後継者の育成に力を入れている。同協会長の鷹野氏は現在80歳。紙漉きが家業だったため、16歳でこの道に入った。途中、和紙を機械で制作していた時期が15年ほどあったが、ある時、「このままでは手漉きが廃れてしまう。機械式も手漉きもわかっているお前がもう一度手漉きをやれないか?」という知人の言葉に一念発起し、手漉きの道に戻ってきた。
現在、鷹野氏のもとでは2名が研修生として工房を手伝いながら、修業を積んでいる。「一人前の職人になるまでには15年かかるといわれている。でも、研修生の場合、行程の最初から最後までやろうとすると1年で2、3回しか紙を漉けない。それを15年続けたとしても、漉ける紙って何枚もない」と、鷹野氏は紙漉きの厳しさを語る。
鷹野氏からは小川和紙、細川紙の歴史や特徴、制作手順の説明を受け、実演を通して和紙に対する理解を深める。また、鷹野氏のもとで修業を積む研修生二人に話を聞く。
2. 和紙の新たな可能性を切り拓いた「紙衣(かみこ)」
・デザイナー岡嶋多紀氏
和紙が洋服に?
今年2月、小川町において、ユネスコ無形文化遺産登録を祝う記念行事が催された。その中で細川紙で作った洋服のファッションショーが行われた。色とりどりに染められた細川紙で仕立てられたコートやパンツは和紙の新しい可能性を打ち出しており、会場からは大きな拍手が送られた。ファッションショーで着用された約20着のうち、数着は埼玉伝統工芸会館に常設展示されている。
これを作ったのがデザイナーの岡嶋多紀氏。奈良県東大寺の伝統行事「お水取り」で、現在でも僧侶自らが和紙で着物を仕立て「紙衣(かみこ)」として着用していることから着想を得た。和紙の勉強のために小川町の工房を一軒一軒訪ね始めた10年以上前、職人から「和紙では食っていけない」という声を多く聞き、和紙というすばらしい工芸品の良さが人々に認知されていないことに心を痛めた岡嶋氏は自身の専門である洋服の分野で 「紙衣」を表現してみようと考えた。職人と試行錯誤しながら制作を始め、発表する機会にも積極的に取り組んできた。販売はしていないものの、自身の「紙衣」が和紙の歴史、良さなどを知るきっかけとなってほしいと岡嶋氏は願っている。
世界にアピールする
昨年9月には、小川町内の中学校の文化祭で中学生をモデルにした紙衣のファッションショーを開催。地元紙などでも大きく取り上げられ、評判を知った小川町の関係者からユネスコ無形文化遺産登録を祝う記念行事でのファッションショーを打診されるに至った。「ユネスコ無形文化遺産に登録されるということは、世界に和紙を発信するチャンス」と考え、モデルには都内の服飾専門学校に通う留学生も起用し、国際性を意識した。「手漉き和紙は独特な光沢と柔らかさ、暖かさがあり、日本人の和の心、手仕事の技の素晴らしさを感じられます」。
埼玉伝統工芸会館に展示されている岡嶋氏の「紙衣」の作品を見ながら、岡嶋氏に和紙への想いを聞く。
3. 戦時中、奇策に使われた小川和紙
~風船爆弾~
・小川町立図書館長・郷土史家 新田文子氏
・当時の紙漉き職人 笠原海平氏(91)
風船爆弾とは何か
風船爆弾とは直径10メートルにもなる紙製の気球に爆弾を吊るしたもの。気球は「気球紙」と呼ばれる非常に薄く漉かれた特別な和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作られた。この組み合わせは、気球に充填される水素を漏らしにくいという研究結果に依拠している。小川町の紙漉き職人は第二次世界大戦中、この気球紙を漉く任務を授かっていた。1944年から1945年までの間に約9,300発の風船爆弾が福島県、茨城県、千葉県の沿岸から打ち上げられ、偏西風に乗って約9,000キロを旅し、米国本土に約900発が到着。そのうちの1発はオレゴン州でピクニック中の子供が触れ、6名が犠牲となった。現地には慰霊碑も建てられている。
91歳の元「気球紙職人」
今年7月の誕生日で92歳を迎える笠原海平氏は気球紙の制作を担っていた一人だ。12歳の頃、奉公に出て紙漉きを学び始め、その後、できるだけ薄い紙を作るようにという要請の下、最盛期は朝から晩まで一日に4名で700枚もの紙を漉いていたという。笠原氏は今から2、3年前に再び和紙を漉く機会を得たが、以前と同じように薄い紙を漉くことができたという。「戦争が終わった後は紙商の仕事をしていたから手漉きからは離れていたけど、体が覚えていたんだ」。当時、職人にどれだけの任務が課されていたかが想像できるエピソードだ。
小川和紙の歴史を知ってもらいたい
笠原氏と20年来の付き合いがあるのは、今年5月に小川町立図書館長に就任した新田文子氏。新田氏はこの風船爆弾の歴史を始め、町史の編纂に携わった経験から小川町の郷土史に最も詳しい人物の一人だ。「風船爆弾を飛ばす作戦は秘密裡に行われており、気球紙の漉き手や気球紙の張り合わせに動員されていた女性たちは自分たちが何を作っているかは知らされていなかったし、知りたくても知ることができなかった。しかし、現代を生きる私たちは知ろうと思えば知ることができる。知らないことは怖いこと。戦争は絶対にいけないことだが、小川町にこういった歴史があることを知ってもらいたい」と語る。
新田氏からは風船爆弾の歴史について説明を受ける。笠原氏からは「気球紙」を制作していた当時の様子や平和への想いなどを聞く。
<実施要領>
1.日程案: 2015年6月2日(火)
7:30 FPCJ出発
9:30-11:30 小川和紙・細川紙説明、実演、研修生へのインタビュー(紙工房たかの)
12:00-13:00 「紙衣」取材、岡嶋多紀氏インタビュー(埼玉伝統工芸会館)
13:15-14:00 昼食
14:15-15:35 風船爆弾:新田文子氏、笠原海平氏インタビュー(小川町立図書館)
17:30 FPCJ帰着
※上記日程は変更が生じる可能性があります。
2.参加資格: 外務省発行外国記者登録証保持者
3.参加費用: 1人2,000円(全行程交通費、食事を含む)
*お支払い方法、キャンセル料等は、後日参加者にご連絡します。
4.募集人数: 10名(各社ペン1名、カメラ1名、TVは1社2名まで)。
*申し込み人数が10名を超えた場合は、国別の参加者数に上限を設定することがあります。
5. FPCJ担当:横田(TEL: 03-3501-3405)
6.備考:
(1)写真・TV撮影に関しては担当者の指示に従ってください。
(2)FPCJはツアー中に生じるいかなる不都合、トラブル、事故等に対して、一切責任を負いません。