【世界のメディアと40年】40周年記念座談会を開催しました!
投稿日 : 2016年09月30日
2016年10月1日、フォーリン・プレスセンター(以下、FPCJ)は40歳を迎えます。この節目を機にFPCJ誕生の背景や変遷を振り返ろうと、このたび、FPCJに関係の深い方々をお招きして座談会を開催しました。
日本経済が世界を席巻し“Japan as No.1”ともてはやされた80年代、バブル崩壊後の失われた20年、そして、グローバル化が加速する現在-。この間、FPCJが一貫して追求してきたのは、「日本を世界へ」という使命でした。時代を振り返る貴重な証言も盛りだくさんです。ぜひご覧ください。
<座談会にご参加いただいた方々>
石塚雅彦氏(元専務理事、2000年~2004年)
ドリン・シモンズ氏(元職員、1978年~2014年)
鈴木昭氏(元職員、1976年~2004年)
池上雅己氏(元職員、1978年~2014年)
司会:杉田明子(事務局長)
(写真:左からシモンズ氏、石塚氏、池上氏、鈴木氏)
~ 70年代、記者の信頼を得るのに苦労した草創期 ~
杉田:今日はよろしくお願いします。鈴木さんはこのなかで唯一、40年前の設立当初のメンバーでいらっしゃいますね。
鈴木:正確には、準備段階から関わっています。手探りのスタートでしたが、まずは外務省の外国記者登録証の発行業務から始め、徐々にプレス・リリースの配信、ブリーフィングやプレスツアーをするようになりました。
(写真:<左> 1976年のFPCJ設立記念式典でスピーチする三木武夫首相(当時)(FPCJ撮影)
<右> FPCJ設立時のスタッフ。下列右が鈴木氏 (鈴木氏提供))
シモンズ:私は設立から約2年後に、プレス・リリースなどの翻訳スタッフとして採用されました。当時、政府などの情報を英語で発信するのに、日本人の翻訳では不十分だといわれていました。面接を何度も受けて5~6度目でようやく採用が決まり、「FPCJの職員は英語に自信があるから、職員の英語を頭ごなしに否定しないでうまくやってくれ」なんてアドバイスされた記憶があります(笑)。
鈴木:設立当初の FPCJは、シモンズさんのような英語のエキスパートから、現役の外務省職員、元自衛官、サラリーマンまで色々な人がいて、当時の日本には珍しいユニークな組織でしたね。また、今と同様に女性が多かったです。
当時は今以上に外国メディアの記者向けの英語資料がなく、記者が電話で企業などに取材しようとしても英語で対応できる人も少なく、そういう点でFPCJのニーズがありました。ただ、職員も最初は全くの素人集団。外国メディアの記者のニーズがわからず、ブリーフィングやプレスツアーを企画しても誰も来ないという失敗の連続でした。記者にどのような情報が欲しいかなど繰り返しアンケートをし、改善していきました。
石塚:初期はFPCJの存在そのものが外国メディアに知られていないこともあったでしょう。記者にはどうアプローチしていましたか。
鈴木:あの頃、外国メディアの記者が400人ほどいたと記憶しています。まずFPCJを知ってもらうのが最初の仕事で、有楽町の日本外国特派員協会(FCCJ)に出向いては、FPCJについて何度もブリーフィングしました。今だから話せることですが、当時の外国記者の間には、「FPCJが外国メディアをコントロールするのではないか」という誤解や疑念があり、それを払しょくするのに2~3年かかりました。1980年ごろまでは、FPCJの知名度を上げ、記者の信頼を得ていく草創期だったといえるのではないでしょうか。
~80年代、日本経済が急成長、外国メディアの注目が集まった黄金期~
石塚:FPCJの歴史や機能の変遷は、日本の経済力、国力に大きく関わっていると思います。80年~90年代前半にかけては、米国が、ソ連の次なる敵として日本の経済を大変警戒していました。その頃、ニューヨーク・タイムズ紙や、ワシントン・ポスト紙などの本社から優秀な特派員が特派員として東京に送り込まれ、外国メディアに大変活気がありました。中国などアジアの記者はまだ少なかった時代です。
1988-96年に専務理事を務めていた北村文夫さんに聞いた話ですが、当時は、海外に名前を知られた大企業も含めて英語で記者会見できる企業が少なく、海外広報担当者などからの相談が多かったようです。記者も、日本企業の広報体制がはっきりしないために取材がしづらいということで、FPCJの存在を必要としていました。こうしたニーズへの対応もあり、非常に忙しかったそうです。
池上:オフィスに記者がよく訪ねて来て、いつも賑やかでした。今は記者がインターネットで何でも調べられますが、あの頃は、官庁や企業に記者向けの資料を取りに走ったり、取材先の電話番号を調べたりと、基本的なサポートが多かったです。私のところにも同じ記者からいつも電話がかかってきて、「今回はこの取材についてお願い」と、まるで助手扱いでした(笑)。
鈴木:“Japan as No.1” ともてはやされた時代ですね。在京特派員だけではなく、米国やヨーロッパからも毎日のようにテレビ・クルーが取材に来ました。「もう来ないでくれ!(笑)」というほど、連日のように押し寄せていました。日本経済の成功の秘訣を知りたいという観点で、トヨタ、ニッサン、マツダなどの経営の秘密を探るような取材が多かったです。80年までがFPCJの創設期とすると、1981年~90年は黄金期であったと言えるといえます。
(写真:コロンビアTVによるスバル大田原工場の取材(鈴木氏提供))
杉田:昭和から平成に元号が代わったのが1989年でした。時代の節目で、印象に残っていることはありますか?
鈴木:昭和天皇が崩御された際は、3回連続でブリーフィングを行いました。私たちにとっても初めてのことばかりで、皇室のバックグラウンドがわかる資料を作り、正しく英訳するのに苦労しました。王室を抱える英国出身のシモンズさんの翻訳に助けられました。
(1989年「大喪の礼」FPCJ特別デスク。後列右が鈴木氏(鈴木氏提供))
石塚:外国メディアの照会に対応して電話番号を調べるような業務は、時代とともに減っていきました。外国メディアも、また国内の企業も徐々に独り立ちできるようになりました。90年代半ばからはFPCJの予算が削減されたと聞いています。私は2000年に専務理事になりましたが、黄金期に比べると、予算はかなり減っていました。
シモンズ:日本全体も暗い時代でした。1995年の地下鉄サリン事件の際は私もちょうど地下鉄に乗っていましたが、車内アナウンスで「(FPCJがある)霞ケ関駅には止まりません」と流れて、そのまま電車が駅を通過していったのをよく覚えています。
(写真:1995年3月地下鉄サリン事件(Ⓒ栗田格))
鈴木:同じ年の1月に阪神・淡路大震災が発生した時は、地震から数日経った日の午前2時ごろ、国土庁(当時)の職員の方にブリーフィングに来てもらいました。ブリーファーの方も疲労が極限まで溜まっていたようで、通訳を介して記者との間で怒号が飛び交うような、緊迫した忘れられないブリーフィングになりました。
~これからも、日本を世界へ~
杉田:草創期、黄金期を経て、鈴木さんは2004年、シモンズさんと池上さんは2014年までFPCJにおられました。また、石塚さんは2000年から2004年まで専務理事を務められました。その間に感じたこと、これからのFPCJに期待することをお聞かせください。
石塚:時代が変わったとはいえ、日本はまだまだ対外発信が足りません。誰の責任ということではなく、オール・ジャパンで対外発信に取り組まなければならないと思います。日本のことを外国によく分かってもらうためにFPCJが汗をかくことで、多くの人からサポートいただける余地は引き続きあると思います。
シモンズ:FPCJでの勤務を振り返って大事だと感じたのは、人と人とのつながりです。私自身は相撲が大好きで、国技館のある両国に住み、親方や力士と個人的なネットワークを築いたことが外国メディアの取材協力にもずいぶんと役立ったと思います。出会いを大切にする心がけを忘れないでほしいです。
池上:FPCJの40年間を振り返り、今後についても考えるキーワードとなるのは、「独立性」ではないでしょうか。記者との関係を築く上でも重要なポイントです。今以上に自主財源を増やしながら、FPCJにできることを見つけていってほしい。2020年の東京オリンピック・パラリンピックも楽しみです。
鈴木:私は、設立時に求められていたFPCJの役割の半分は、最初の20年間で終わったと考えています。外国メディアの記者のために走って資料を取りに行くような需要はなくなり、より付加価値のある実質的な仕事を求められるようになりました。FPCJが次の10年、20年と生き残るためには、中立性と独立性を保ちながら、ここではないとできないブリーフィングなどの事業を充実させることが必要だと思います。
石塚:FPCJの使命や活動意義を、もっと知ってもらおうとする姿勢が必要ではないでしょうか。頑張ってください。
杉田:みなさま、本日はありがとうございました。