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【バングラデシュ】プロトム・アロ モンズルール・ハック 東京支局長

投稿日 : 2015年04月23日

発展途上国の記者として初めて日本外国特派員協会(FCCJ)の会長を務め、東京外国語大学でベンガル語を教えるなど幅広く活躍するモンズルール・ハック東京支局長。バングラデシュ最大の日刊紙プロトム・アロの特派員として、15年以上にわたり日本のニュースを伝えている。「バングラデシュにとって、日本は経済的にも歴史的にも大切な国」と語るハック支局長に、日本での取材について聞いた。

 

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~ 「中立路線」と「調査報道」で急成長 ~

 

― プロトム・アロは、東京に特派員を置く数少ないバングラデシュのメディアの一つですね。どのような組織なのでしょうか?
プロトム・アロは、「最初の光(朝日)」という意味です。バングラデシュの公用語であるベンガル語の新聞です。1998年に創刊され、国内で最も発行部数の多い日刊紙(約65万部)に成長しました。第2位の発行部数が15万部なので、大きく引き離しています。ウェブでの発信のほか、代表的な英字紙であるデイリー・スター紙、インテリ層向けの週刊誌dhaka courierなどと提携があり、私も記事やコラムを書いています。

 

同紙が急速に読者の心をつかんだ理由として、政治的に中立路線を掲げていること、調査報道に力を入れていることが挙げられます。たとえ政府であっても間違いは追及します。先進国では当たり前でも、バングラデシュでは斬新な報道スタイルでした。海外に本格的に特派員を置いたのも、私たちが初めてです。ニューデリー、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、東京に特派員がいます。本来、私は東アジア全般をカバーする立場なのですが、予算的な制約もあり日本での取材がほとんどです。

 

― なぜ、東京に特派員を置いているのでしょうか?
バングラデッシュにとって日本がとても重要な国だからです。理由はたくさんあります。経済的な側面でいえば、日本は長らく最大のドナー国でした。日本のODA(政府開発援助)はバングラデシュの発展に欠かせないものでしたし、今は企業投資がそれに変わりつつあります。10年前までバングラデシュに進出する日本企業は数えるほどでしたが、今は300社近くになります。

 

歴史的にも、日本と南アジア諸国の関係は良好です。さらに日本は、1971年にバングラデシュがパキスタンとの戦争の末に独立を勝ち取った際、国家として真っ先に承認した国の一つでした。その後、米国や英国が追随して承認しました。こうしたこともあり、バングラデシュの人々は日本にとても好意的な感情を持っていますし、日本は私たちにとって大事な国なのです。

 

~ 会社からの特命事項は「特集記事」の執筆 ~

 

― 特派員として、どんなテーマを主に取材されていますか?
東京の特派員は私一人しかいませんから、何でも取材します。先日は、沖縄で映画祭と米軍基地問題を取材しました。キャンプ・シュワブの前で昼夜抗議活動を行っている人々がいることに驚きました。現地に行って、実際に話を聞かないと分からないことは多いです。

 

会社からは、日々のニュースはロイターやAP、AFPなど大手通信社に任せてよいから、トピックを深く掘り下げる特集記事を書くようにと言われています。日本の事象について、なぜ起きたか、どのような影響があるかを分析し、自分の感じ方や考え方も交えて原稿にします。

 

― バングラデシュでは今、どのような日本のニュースが好まれていますか?
日本への関心は全体的に高いですが、まずは経済、ビジネスです。例えば先日、京都の竹細工について記事を書いたところ、バングラデシュの事業者から、日本に竹を輸出したいという相談がありました。京都の経営者につないだら、彼らが中国から輸入している竹の価格が高騰しているので、喜んで検討したいということでした。もう一つは、芸術・文化で、日本文化への関心がとても高くなっています。

 

― 昨年は5月にハシナ首相の訪日、9月に安倍総理の訪問が続きました。

一年間に両国の首脳が行き来することなど、そうありません。安倍総理は、すでに友好的な両国の関係をさらに強化し、企業投資も一層促進しようとしています。バングラデッシュが一方的に援助を受けていた関係から、ビジネスを軸とした相互関係に変わりつつあると感じます。こうした二国間の動向は私の最優先事項ですから、もちろん通信社任せにせず、忙しく取材しました。

 

~ 心から書いた記事 東日本大震災の被災者の苦しみ~

 

― 長年の日本での取材で印象に残っている出来事を教えてください。

2つあります。一つは、2000年に沖縄で開催されたG8です。2001年の米国同時多発テロが起きる前で、セキュリティも今ほど厳しくなく、地元もとても盛り上がっていました。日本で初めての大きな取材だったこともあり、鮮明に覚えています。

 

もう一つは、2011年の東日本大震災です。いつ家に帰れるか分からない福島の人々の取材では、特に心が痛みました。人間にはふるさとがあり、家には思い出があるものですが、そういった大切なものがすべて奪われたのです。母国の読者に日本の人々の苦しみを伝え、何かできることがあるのであれば何でもやろうと呼びかける思いで記事を書きました。また、私の国も災害が多いので、災害への備えを警鐘したいとも思いました。

 

地震直後、在京大使館や本国外務省は「東京は危ない。大使館も避難した方がよい」との考えでしたが、私は反対でした。日本に対し決して良いメッセージにはならないと、冷静さを保つよう要請する記事を書きました。最終的には、在京大使館は東京に留まりました。今こそジャーナリストが東京に残り、ありのままを伝える時だと思いました。最終的には取材を続けることができました。

 

また数年後にFPCJのプレスツアーで石巻を取材した際、それまで避難所として使われていたという宿泊先のスタッフたちが、被災者と毎日のように歌っては涙したというふるさとの曲を歌ってくれました。こうしたエピソードに私はとても胸を打たれ、心から原稿を書きました。被災地の取材では自然と涙がこぼれます。

 

~ 「書く」ことへのこだわり 日本へのメッセージ ~

 

― ハックさんご自身のことを少し教えてください。なぜ、ジャーナリストになったのですか?
独立戦争当時、私は学生で、ゲリラ運動に参加していました。独立を勝ち取った後、学生組織が発行する雑誌に深く携わるようになりました。国は破壊されてしまいましたが、新しい国が造られようとする面白い時代でした。その後ロシアに留学してジャーナリズムを学びましたが、メディアの仕事は収入が不安定だったので、帰国後は国連広報センターで10年間働きました。その間もずっとジャーナリストになりたいと思い続けていたので、ペンネームで記事を書くこともありました。私は、書くことが本当に好きなんです。テレビよりも新聞派です。テレビはタイムリーな報告(レポート)が主で映像が重視されますが、新聞、とくにコラムでは、一つのことを深く掘り下げることができます。

 

― なぜハックさんが東京特派員に選ばれたのでしょう。
私は日本人の女性と結婚し、1994年に来日しました。最初は他の新聞やNHKと契約して働いていましたが、1998年に知人が立ち上げたプロトム・アロで創刊号から特派員をしています。長く日本にいても、日本語はなかなか上達しません(笑)。FPCJのプレスツアーには通訳がついていますから、いつも助けられています。

 

― 来日されてから約20年。日本をどのようにご覧になってきましたか?
80年代の経済成長には、良い面と悪い面がありましたね。国は豊かになりましたが、日本人は少し傲慢になりました。バブル後の不況についても、悪い面だけではなく両面があったと思います。経済は下向きになりましたが、人々は優しくなったと感じます。ODAを例にとっても、日本人が現地に入り込んで技術を伝えるなど、以前に比べて少ない額のODAがより適切に運用されているのは良いことです。また、日本の景気が悪くなったからこそ、バングラデシュに進出する企業も増え、相互に支えあう関係が生まれたともいえるのではないでしょうか。

 

― 最後に、今の日本をどうご覧になっていますか?
悪いところはあまり思いつきません。人々は親切ですし、食事もおいしい。納豆は食べられませんが…、笑。バングラデシュとの関係も良好です。たとえば、2015年の安保理非常任理事国選挙では、バングラデシュが立候補を取り下げ、日本を支持することになりました。そこには、深い相互理解があるものだと思っています。

 

ただ、私が困惑するのは、歴史認識です。とくに一部の人が国家主義的になっているのは気になります。戦後70年にあたり、安倍総理も当初はやや挑戦的でしたが、過去の政府見解を撤回することが必ずしも日本のためにならないと気付いていると思います。次の時代に向けて新しい扉を開き、あらゆる国に対して友情の気持ちを持つことが、日本にとって最良の道だと思います。

 

 

DSC_0274_3モンズルール・ハック支局長
1978年、モスクワ大学大学院修士課程修了(ジャーナリズム)。1993年、ロンドン大学大学院修士課程修了(日本学)。バングラデシュで国連広報センター、英国でBBCワールドサービスに勤務。1994年に来日し、1998年から現職。2009-2010年に日本外国特派員協会(FCCJ)の会長を2年間務める。一般社団法人日本バングラデシュ協会理事、特定非営利活動法人シャプラニール=市民による海外協力の会評議員、東京外国語大学非常勤講師を務めるなど多方面で活躍している。

 

プロトム・アロ
1998年創刊。発行部数約65万部で、国内最大の日刊紙。ベンガル語紙。政治的には中道路線を掲げる。読者層は労働者層からインテリ層まで幅広い。創刊当初から東京支局を開局。

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