プレスツアー(案内)

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実施日 : 2015年07月09日 - 10日

案内:戦後70年・広島プレスツアー

投稿日 : 2015年06月19日


- 原爆から70年、被爆地ヒロシマの声 - 

- 記憶の継承をめぐる課題と新たな動き -

- 戦後の広島と共に歩んできたユニークな地元企業 -

 

 

 

-原爆から70年、被爆地ヒロシマの声-

1-HB405 1945年8月6日の原子爆弾投下から今年70年目を迎える広島。一発の爆弾により焦土と化した広島では、幼子からお年寄りまで1日で何万もの市民の命が絶たれ、その年のうちに14万人が亡くなった。原爆による被害の特質は、大量の破壊と殺りくが瞬時に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間に渡って多くの人々を苦しめていることにある。

 戦後、広島市は人類史上初めて核兵器によって攻撃された都市として、二度と同じ悲劇を繰り返してはならないと、核兵器廃絶と平和の実現を世界に訴えてきた。広島市長は70年目の今年を、ヒロシマの役割を再確認し、「平和への思い」を世界と共有する年にしたいとしている。

 

 

記憶の継承をめぐる課題と新たな動き-

2-P1070192 一方、被爆者の平均年齢は79歳を超えており、その悲惨な体験を直接語り伝えられる人が年々減っている。(広島と長崎2つの原子爆弾による被爆者(被爆者健康手帳所持者)は合計19万2,719人。※2014年3月現在) この課題に対し、被爆を体験していない世代が記憶を引き継ぎ、伝える役割を担う試みが始まっている。広島市では、若い世代の人々を募り、彼らが被爆者の体験を聞き取ってそれを未来に伝える「伝承者」となるよう養成するプロジェクトを始めた。また、広島を始めとした全国の高校生が署名を集め、国連を訪れて核兵器廃絶の実現を訴える「高校生平和大使」の活動も活発だ。

 

 

-戦後の広島と共に歩んできたユニークな地元企業-

3-DSCF5804-RE - コピー 広島は戦後、焼け野原から目覚ましい復興を遂げた。その広島と共に歩んできたユニークな地元企業がある。広島拠点の自動車メーカー、マツダは、原爆投下後わずか4ヵ月で3輪トラックの製造を再開。広島の復興を支え、すそ野の広い自動車製造で地元の経済・産業の基盤となってきた。また、戦後の物資不足のなか広まった広島のソウルフード、お好み焼用のソースを開発した会社もある。

 

 

 

 

 

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●本プレスツアーでは、広島市を訪れ、原爆から70年を迎える被爆地ヒロシマの声として、市長や被爆者へのインタビューを行う。


●被爆者の高齢化で記憶の継承が課題となるなかでの新たな動きとして、彼らの記憶を引き継ぐ若い世代の「伝承者」や、地元の高校生にも話を聞く。また、被爆しながら現在も現役で走り続ける「被爆電車」や、広島平和記念資料館、原爆ドームなどを取材する。


●戦後の広島と共に歩んできたユニークな地元企業として、海外市場でも高い人気を誇り、今年3月期には過去最高益を記録した自動車メーカー、マツダとお好み焼きソースのオタフクを取材する。

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※本プレスツアーは広島市とフォーリン・プレスセンターの共催事業です。 

 

 

 

【取材内容】

 

―――原爆から70年、被爆地ヒロシマの声―――

 

1.        広島市長インタビュー 松井 一實市長

~原爆投下から70年目、広島からのメッセージ~

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1001000002088/index.html

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/index.html

(広島市長 平和宣言 2014年版:英語、中国語、ハングルなど10言語)

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 70年前、原子爆弾によって壊滅的な打撃を受けた広島市。人類史上初めて核兵器によって攻撃された同市は、核兵器廃絶と世界平和の実現を一貫して世界に訴えてきた。

 被爆70周年という節目の年を、被爆都市ヒロシマの役割を再確認し、「平和への思い」を世界と共有する年にしたいとする広島市 松井市長。同市長は、初の戦後生まれの広島市長であり、被爆者を母に持つ被爆 2 世でもある。昨年8月6日に発表した平和宣言では、被爆者の手記を次のように引用し、彼らの今なお続く苦しみについて触れた。――「水を下さい。」瀕死の声が脳裏から消えないという当時15歳の中学生。建物疎開作業で被爆し、顔は焼けただれ、大きく腫れ上がり、眉毛や睫毛は焼け、制服は熱線でぼろぼろとなった下級生の懇願に、「重傷者に水をやると死ぬぞ。」と止められ、「耳をふさぐ思いで水を飲ませなかったのです。死ぬと分かっていれば存分に飲ませてあげられたのに。」と悔やみ続けています。

 

 被爆者の平均年齢は79歳を超えており、一日も早い核兵器廃絶の実現を悲願とする広島市では、日本政府に対して、「核兵器禁止条約」などの新たな法的枠組みの創設に向けた外交を強く求めている。また、核保有国を始めとする各国の為政者に対し、広島を訪れて被爆の実相に触れ、被爆者の体験や平和への思いを共有し、核兵器廃絶の実現に向かって努力することを期待している。

◆市長から被爆地・広島から世界に向けたメッセージを聞く。


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2.被爆者インタビュー 広島県原爆被害者団体協議会 理事長 坪井 直さん(90歳)


20歳で被爆、核兵器がもたらす苦しみと戦い続けた70年間~

http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/

8-s260-RIMG0063tuboisensei 広島市に原爆が投下された1945年8月6日、当時20歳だった坪井さんは、広島工専(現在の広島大学工学部)への通学途中、爆心地から約1キロの地点で被爆した。顔や両腕に大やけどを負い、意識不明で倒れていたところを母親の必死の捜索で助けられた。40日間もの昏睡の後、意識は戻ったものの1年間立つこともできなかった。戦後も被爆者ということで結婚の際にも差別を受け、原爆症で多重ガンを始めとした様々な病に苦しみ続けている。

 坪井さんは、長年中学校の教師として勤めた後、被爆体験を内外の人々に伝える活動に精力的に取組んできた。核実験への抗議や平和を訴える活動で10ヶ国以上、計21回海外にも赴いた。今年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議が最終文書の合意に至らず決裂したことについては「後退している。残念でならない」と悔しさをにじませる。しかし、原爆から70年を迎える現在の心境を、「息の根が止まるまで戦争や核兵器に反対していく」と力強く語る。

◆坪井氏に、被爆当時の話を聞くと共に、原爆から70年を迎える現在の心境や、NPTなど核をめぐる世界の動きに対する思いを聞く。

 




―――記憶の継承をめぐる課題と新たな動き―――


3.若い世代が、被爆者の記憶を受け継ぐ新たな試み「伝承者」養成プロジェクト 

大松 美奈子さん(43歳)

~責任の重さと葛藤を超え、被爆者の思いを未来に伝えたい~

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/oshirase/H27_successor/index.html

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1335957115477/index.html

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110598417580/index.html


・若い世代が被爆者の話を聞き取り、3年間かけて「伝承者」に

9-P1070182-RE 70年を迎えた今、被爆者の平均年齢が79歳を超え、体験を直接伝えられる人が減っている。この課題に対して、被爆を体験していない世代が記憶を引き継ぎ、伝える役割を担う試みが始まっている。広島市では、2012年度から、若い世代の人々を募り、彼らが被爆者の体験を聞き取ってそれを未来に伝える「伝承者」となるよう、3年間かけて養成するプロジェクトを開始した。2015年4月には第1期生の50名が研修を終え、毎日交代で、平和記念公園を訪れる人々に被爆者の話を伝えている。外国語で伝える活動を行っている人もいる。第一期生の「伝承者」は30代~70代の男女。被爆者を親や祖父母に持つ被爆2世・3世もいれば、県外の人や、被爆者との家族関係がない人も多い。どの被爆者の体験を語り継ぐかを自分で決め、その1人に集中して、幼少期の思い出から被爆体験、人生で感じてきたこと、平和への願いなどをじっくり聞き、それぞれが記録してきた。


・「伝承者」を目指す若い世代の思いとは

10-P1070192 - コピー 現在も141名の人々がこの養成プロジェクトで研修中だ。現在研修3年目の第2期生、大松 美奈子さん(43歳)は香川県出身。身内に被爆者はおらず、大学への進学を期に広島に移り住んだ。10代で初めて広島を訪れ、原爆ドームを見た時、「自分と同じ歳の人々が一瞬にして亡くなったことに衝撃を受け、その記憶が失われてしまったらどうしよう」との思いを抱き、それが心の片隅にずっと残っていたことが参加の動機だ。「伝承者」養成の募集があると聞いたとき、自分は原爆と直接関係ないのに、そんな重いテーマのことをやっていいのかと躊躇したが、「被爆者は必ず居なくなってしまう。それなら伝える人は多い方がいい。自分は広島出身ではないが、唯一の被爆国である日本に生まれた日本人だし、人類の過ちと捉えれば国籍だって関係ない」と思い、参加を決意した。


11-P1070189 それでも、被爆を経験した本人以上に伝えられるものはないのではないか、ビデオで記録する方法もあるし、第三者である自分に何ができるのか、という葛藤もあった。しかし、担当する被爆者の国重昌弘さん(84歳)が「自分は核兵器を残して死んでいいのか」と、本当は忘れたい辛い体験を全て伝える覚悟で話すのを何度も聞き、交流を重ねるうちに、「この人のことを多くの人に伝えたい」という思いが強くなった。さらに、本人が語れない苦しみ、むしろ被爆者のことを傍で見てきた自分達だからこそ伝えられる要素もあるのではないかと思うようになったという。「被爆者の方を直接知ることで、ご本人の思いにプラス自分の思いを乗せて、次の世代に伝えていくことができる」と大松さんは語る。

◆「伝承者」として3年目の研修を受けている大松美奈子さん(43歳)に、伝承者を目指した理由や、今後の活動などについて聞く。




4.高校生平和大使

10代の若者たちが核廃絶を国連に訴える。署名累計117万通以上~

18代高校生平和大使 井上つぐみさん 県立広島高等学校1

17代高校生平和大使 片山実咲さん 県立広島高等学校2

15代高校生平和大使 桒原麻実さん 広島女学院高校卒

http://peacefulworld10000.com/

12-9 (1) 毎年全国から高校生を募り、核兵器廃絶と平和な世界の実現を訴えるメッセンジャーとして国連に派遣する「高校生平和大使」プロジェクト。1998年に、相次ぐ核実験に危機感を募らせた長崎県の市民団体が、核の惨禍を知る被爆地の声を世界に伝えたいと始めたものだ。2001年からは、高校生たちの発案で、核廃絶と平和の実現を訴える署名を集める活動も行っている。高校生たちは、毎年1年かけて署名を集め、それを携えてスイス・ジュネーブの国連欧州本部軍縮局を訪れ、核兵器廃絶を求めるスピーチを行っている。同局に提出された署名は2014年の1年分だけで13万1,700通。2001年からの累計では117万3,400通に上り、これらは全て国連で永久保存されることになっている。フィリピンや韓国などの高校生が現地で署名活動をする動きもあり、海外にも広がりを見せている。

 また、韓国にも広島・長崎で被爆し、その後帰国した被爆者が数多くいることから、高校生たちが韓国を訪問し、在韓被爆者と交流する活動も行っている。

 18回目を迎える今年は、これまでで最多の16都道府県から22名の高校生が平和大使として選出された。広島からも2名の高校生が選ばれている。

◆この夏、広島代表の「高校生平和大使」としてジュネーブの国連欧州本部に赴く予定の井上つぐみさん(高校1年生)と、2名の平和大使経験者に話を聞く。

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5.原爆ドーム・広島平和記念資料館


~世界の人々が訪れ、原爆の惨禍を知る場に~


<広島平和記念資料館>

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/

16-HG273 広島平和記念資料館では、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示すると共に、広島の被爆前後の歩みや、原爆投下後、世界で核兵器保有が進んだ「核時代」の状況について紹介している。死亡した学生たちが身に付けていた制服の残骸、黒焦げの弁当箱、高熱で溶けたガラス瓶など収蔵品は約2万1,000点に及ぶ。一瞬にして多くの生命が奪われたなか、遺品を残しただけで、遺体はおろか骨さえ肉親の元に戻らなかった人たちも多い。展示されている遺品の多くは、肉親がその安否を気遣って、焦土の中から探し出したものだ。年間の訪問者は約130万人で、外国から訪れる人も多い。ヨハネ・パウロ二世、マザー・テレサなど多くの著名人も来館して平和へのメッセージを記帳しているほか、各国首脳も訪れている。


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原爆ドーム

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/dome/index.html

20-DSCF5756-RE 1915年、広島県内の物産品を販売する場所としてチェコ人建築家の設計で建てられた施設。当時は広島のモダンな名所として知られていた。1945年に原子爆弾が炸裂したのはこの建物から南東約160メートル、高度約 600メートルのところだった。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、館内にいた人は全て即死した。戦後の一時期には、その存在が風化する危機もあったが、国内外での募金により大規模な保存工事が行われ、1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。現在では、核兵器の廃絶を訴える広島のシンボルとなっている。

◆平和記念公園を訪れ、原爆ドームを撮影した後、広島平和記念資料館内を視察する。




6.公益財団法人 広島平和文化センター 理事長 小溝 泰義さん

~不信と脅しに依存する「核抑止」から脱却する勇気を、広島から発信したい~

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/21-2020vision (1)-bigger

http://www.mayorsforpeace.org/jp/index.html 

 広島平和文化センターは、広島市の委託を受け、広島平和記念資料館の運営を行うほか、「平和首長会議」の事務局も担っている。「平和首長会議」は、広島市の呼びかけで1982 年に設立されたもので、現在160カ国の約6,706の都市が加盟し、2020年までに核兵器を廃絶することを目指す行動指針「2020ビジョン」を策定している。参加を表明すれば、その自治体は2020年までの核兵器廃絶を目指し、そのための交渉を推進することを約束する仕組みだ。また、核兵器の開発、製造、備蓄、使用などの禁止およびその廃絶について規定する「核兵器禁止条約」の締結に向けた働きかけも進めている。

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 冷戦終了後20年以上たった今も、世界に1万5 ,850もの核兵器が存在し、核兵器拡散や核テロの危険も指摘されている。理事長を務める小溝さんは、この大きな壁に立ち向かうには、市民社会が中心となって発想の転換を図ることが重要だとする。広島から世界の為政者たちに対し、「相互不信と脅しに依存する「核抑止」のゆがんだ安全保障を脱却し、同じ人間としての共同体意識に根差す安全保障体制へと方向転換する勇気とインスピレーションを提供したい」と小溝さんは語る。

◆小溝理事長に、平和首長会議や広島の果たす役割などについて聞く。




7.広島電鉄 被爆電車

~被爆した電車が、今も現役で街を走り、あの日の記憶を伝える~

http://www.hiroden.co.jp/23-04_650形(被爆電車)-RERE

http://www.rcc.jp/70/tram.htm

 市民の足として親しまれる広島電鉄の路面電車。現在運行されている電車のなかに、原爆が投下されその時に街を走っていて被爆した「被爆電車」がある。651号と652号の2両が、現在も毎日乗客を乗せて現役で走っているのだ。 

 被爆時、広島電鉄にあった123両の車両のうち108両が被災、185名もの従業員が死亡した。残された従業員は倒れていた電柱を起こし、切れた電線をつなぐなどして復旧作業を進めた。そして原爆投下3日後の8月9日には、一部区間で市内電車が奇跡的に走り始め、怪我をした人や、行方不明の家族を探しに行く人々を運んだ。壊滅的な被害を受けた広島の街に電車が走る光景は、市民を大いに勇気づけたと言われている。戦後も、人々を満載して運んだ電車は広島の街の復興を支えた。24-K-KM001


 なお、戦時下では男性が次々と召集され戦地に向かったため、運転士や車掌などの人材が不足するようになった。そのため広島電鉄では、女学生を集めて仕事をしながら教育が受けられる全寮制の女学校を設立。1943年からの2年間、当時15歳前後の女子学生たち300名が運転や車掌などの業務を担っていた。これらの女学生のうちの30名、教師1名が原爆で亡くなった。

 被爆電車は、当時の記憶を伝える車両として修学旅行などにも利用されている。また、70年目を迎えるこの夏、通常運行されている2両に加え、保管されている別の被爆電車653号が当時と同じ塗装に復元されて運行される。車内では、被爆者の証言や復興のエピソードが車内のモニターに映し出される予定だ。

◆広島電鉄の車庫を訪れ、同社担当者の説明を受けながら、現在も運行を続ける「被爆電車」を視察する。

 




―――戦後の広島と共に歩んできたユニークな地元企業―――

 

8.マツダ株式会社

~戦後の広島と共に歩んだ自動車メーカー。独自のモノ作りを追求し過去最高益を記録~

http://www.mazda.com/ja/about/profile/ 28-DSCF5804-RE

http://www.mazda.com/ja/about/museum/

 

20153月期、過去最高益を更新

 古くから製鉄が盛んだった土壌を背景に、1920年に広島で誕生したマツダ。1945年の原爆投下後も、わずか4ヵ月で3輪トラックの製造を再開した。広島の復興を支え、すそ野の広い自動車製造で地元の経済・産業の基盤となってきた。国内登録車シェア第4位の自動車メーカーだ。

 そんな広島生まれ、広島育ちのマツダが、今改めて注目を集めている。2015年3月期決算では、本業のもうけを示す営業利益が前年比11.4%増の2,029億円と2年連続で過去最高を記録。世界での販売台数は前年比5%増の139万7,000台で、同社としてこの20年で最多となった。特に北米や欧州、中国などの市場で好調で、円高の影響を差し引いてもその人気ぶりは顕著だ。


・低迷期にモノ造りを徹底的に見直すことで生まれた新技術

29-DSCF5785-RE 好調な販売を牽引しているのが、マツダが独自に開発した低燃費技術群「SKYACTIV」だ。燃焼効率を高めたエンジン、滑らかな変速と燃費の向上を可能にするトランスミッション、軽量ながらも高剛性なプラットフォームを組み合わせた技術の総称で、エンジン車でありながらハイブリッド車並みの燃費の良さを実現している。その「SKYACTIV」を象徴するディーゼルエンジン搭載車も人気で、ガソリンより安価な軽油を使うため燃料代を抑えられると同時に、パワフルな走りが両立できると好評だ。同社の「Mazda3(日本名:アクセラ)」は、2014年のワールド・カー・オブ・ザー・イヤーのファイナリストにも選ばれており、各国のクルマ好きが「走行性の良さ」や「運転する際の楽しさ」でマツダ車を選んでいると言われている。

 現在好調のマツダだが、長らく業績の低迷に苦しんでいた時期があった。2009年3月期から12年3月期までは4期連続の最終赤字に沈んでいた。この危機に、マツダは設計、生産などの部門の壁を超えて自社のモノ作りを徹底的に見直し、コスト改善を図ったのだ。


・新型スポーツカーの発売、トヨタとの技術提携でますます注目

 2015年5月、マツダは、同社の人気スポーツカー「ロードスター」のニューモデルを10年ぶりに発売。前のモデルから100キロもの軽量化に成功し、大きな話題となっている。同じく5月にはトヨタとの間で環境技術分野を軸とする提携拡大を発表した。燃料電池車など次世代技術で先行するトヨタと、エンジン車の低燃費技術を誇るマツダの間で、相互の強みを生かす協力を図る見込みだ。

◆マツダ本社を訪れ、経営幹部から同社の経営戦略について聞く。さらにマツダミュージアムなどを視察し、「SKYACTIV」などの独自技術や、新型ロードスターを始めとした話題の車種に触れる。

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9.オタフクソース株式会社

~戦後復興期の広島で生まれたソウルフード、お好み焼を支える味~

33-広島お好み焼イメージ (2)-RE 広島の名物として人々に親しまれているお好み焼。広島お好み焼の特徴は、鉄板の上に水で溶いた小麦粉生地を薄く広げて焼き、キャベツや麺などの具材を重ねて作る点。味を決定づける専用のソースを製造しているのがオタフクソースだ。年間の生産量は約2万キロリットルで、お好み焼ソースの全国シェア第1位、全体の約7割を占めている。

 お好み焼は、原爆投下後の焼け野原となった広島で、物資が乏しいなか屋台を中心に広まった食べ物だ。海外から救援物資として送られた小麦粉を利用し、キャベツなどでボリュームを増してお腹を満たしたのだ。古くから重工業が盛んな土地柄のため、店を始めるにあたり鉄板が手に入れやすかったことも普及した理由の一つと言われている。戦争や原爆で夫を亡くした未亡人が、自宅の一角でお好み焼店を開くケースも多かった。

34-DSCF6019-RE オタフクソースの前身である佐々木商店は、1938年から酢の醸造を行っていたが、原爆投下により店が全焼。戦後、ウスターソースを製造し、お好み焼店に販売するなかで、よりお好み焼に合うソースの開発に取組む。そして試行錯誤の末に、とろみのあるお好み焼専用のソースを生み出したのだ。

 同社は、日本食の一つとしてお好み焼を広めたいとの考えから海外にも進出している。世界約50カ国に輸出しているほか、2013年には米国(ロサンゼルス)と中国(青島)に工場を設立、現地生産を始めている。

◆オタフクソースを訪れ、調理の実演を見ながらお好み焼を食す。また、同社の国際事業の責任者より説明を受けつつ、広島お好み焼の歴史と文化を展示する「おこのミュージアム」を視察する。



【実施要領】

 

1.日程案: 201579日(木)~10日(金)(12日)

1日目:79日(木)>

08:15-09:40                    羽田空港~広島空港(ANA 673)

10:50-11:20(30m)        原爆ドーム

11:30-12:45(1h15m)    広島平和記念資料館

12:45-13:15(30m)        昼食

13:15-14:00(45m)        広島平和文化センター小溝 泰義理事長インタビュー

14:30-16:15(1h45m)    広島被団協 坪井直理事長インタビュー

17:00-18:15(1h15m)    高校生平和大使インタビュー(広島国際会議場)

18:45-20:00(1h15m)    オタフクソース(夕食含む)

20:30                               ホテル着


2日目:710日(金)>

8:45                                ホテル発

9:00-10:30(1h30m)      伝承者インタビュー(広島国際会議場)

11:00-11:45(45m)        市長インタビュー(広島市役所)

12:15-13:00(45m)        昼食

13:15-14:15(1h)           広島電鉄株式会社・被爆電車

14:45-17:45(3h)           マツダ株式会社

19:30-20:50(1h20m)    広島空港~羽田空港(ANA 686)

 

2.参加資格:            外務省発行外国記者登録証保持者

 

3.参加費用:            120,000円(全行程交通費、宿泊費、食費を含む)

*お支払い方法、キャンセル料等は、後日参加者にご連絡します。

 

4.募集人数:            10名(各社ペン1名、カメラ1名、TV12名まで)。

*申し込み人数が10名を超えた場合は、国別の参加者数に上限を設定することがあります。

 

5. FPCJ担当:吉田(TEL: 03-3501-3405

 

6.備考:

(1)  写真・TV撮影に関しては担当者の指示に従ってください。

(2)  FPCJおよび広島市はツアー中に生じるいかなる不都合、トラブル、事故等に対して、一切責任を負いません。

(3)  本プレスツアーでは、参加者に経費の一部を負担していただいていますが、営利を目的とした事業ではありません。

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※本記事内 写真クレジット(以下写真の無断使用を固く禁じます。)

以下(2)-dは広島平和記念資料館所蔵、他は全て広島平和記念資料館所提供

(1)冒頭 

    1番目の写真: 撮影/米軍(US Army)

(2)取材内容5.広島平和記念資料館

    (2)-a文章右:撮影/米軍(US Army)

    (2)-b文章下左:左写真 撮影/米軍(US Army)

    (2)-c文章下左:右写真 撮影/木村 権一(Gonichi Kimura) 

    (2)-d文章下右の絵:作者/吉村 吉助(Kichisuke Yoshimura)

(3)取材内容7.広島電鉄 被爆電車

    文章左:撮影/岸田 貢宜(Mitsugi Kishida)

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